おっさん、やせてみる。

柴崎在住のおっさん、一念発起してやせてみる記録。

継続を志す。

いわゆる若い時と、今と、違うと感じることは色々とある。


今回、特に思ったのは、自分とはどういうものかを測定するためのデータベースの厚みの違いだ。


なにしろ今の私のデータベースには、私がこれまでどういう成功を、失敗を、栄光を、挫折を、どんなときに、どんなふうに味わってきたか、またそれがなぜそうなったのか、それなりに客観的に考察するための記録がたくさん、ある。
統計として、それなりに信用するに値する程度のデータ量である。



今回、過去最重量を自覚した私がやせてみようとするにあたり、最初に考えたのは、いかにやせるための”努力を継続する”か、ということである。


私という人間は、どんなときにそれを継続でき、どんなときにできないのか。



若い頃(何回このフレーズを使うつもりか!)は、
「今日から変わる、これとこれをがんばってやる! できる!!」
という自己への過大評価と、
「これは自分には向かない、自分はこういう系の人間じゃないんだ」
という自己への過小評価の振り幅が広くて、


もっと加減すればいいのに。
もっとがんばればいいのに。


その辺の、自己評価の精密さは、まあ、少なくとも(せめて)若い頃の私よりは、高まっているはずなのである。



それを踏まえて。
今回のダイエットにあたり、継続を目的とした心構えのひとつが、


「大事なことにしすぎない」


ということだ。



私が過去に、何かを継続できなかった最大の要因は、そのことを、大切に、大事に、重要に、重大にしすぎるために日常生活からどんどん離れていったためなのだ。


大好きな読書、ゲーム、書、あるいはダイエットでも部屋の掃除でも。
嫌なわけではなく、めんどくさいわけではなく、飽きたのでもなく。


「今日はちょっと疲れてるからそれをしていいコンディションじゃない」
「今日は30分しかないから、十分に打ち込めないからやめておこう」
「今日はそれをしていい気分じゃない。お酒も飲んじゃったし」


とかとか、言いながら、文字通りの”敬遠”をしてしまうのがこのクソ野郎の挫折、断念の根本のようだ。


反対に、ずっと間違いなく20年間継続していることはどんなことか。



例えば、髭剃りだ。


出来栄えやプロセスがどうであろうが、しないで出勤するわけにはいかないから、一日も欠かさずやってきた。
お気に入りの髭剃りでなければ100均のカミソリでもいい、
シェービングクリームがなければ石鹸でいい。
それもなければ、直にゾリゾリやってでもとにかく出勤に間に合わせて。
なんでもいいから、とにかくそうしないと、どうしようもない。


それで結局、確かに間違いなく継続できている。



だから今回、やせるということについて、”継続”をテーマに置くならば、私はこの項目を、自分の心のVIPルームではなく、家畜小屋に置くべきなのである。


このブログもな。


どこまでいけるか。少なくとも、今日はまだ、大丈夫のようだ。つづく。